物語3:Street History 《通り》たちの いま・むかし

公開日 2018/11/30

浦添の戦後。その発展を語るなら、

アメリカ文化が人々の暮らしや風景に溶け込んだ4つの《通り》に触れなきゃならない。

どうしてアメリカ文化が? そこが詳しく知りたければ、どうぞ探究編を。

 

けれどもまずは、どんな《通り》があるのか、浦添の4つの《通り》をのぞいてみよう。

 

いいかい、ここは沖縄。といっても、リアルではないパラレルワールド。

沖縄中の《通り》がキャラクターとなって集まっている世界。

見た目も、性格も、職業も様々で、人間と同じように生活している。

 

そんな世界の浦添市。

これから紹介する個性的な4つの《通り》は、戦後のアメリカとの関係のなかで育ったけれど、それぞれ違った成長をした《通り》たちである。

地元では、この4人を知らない者はいないというほど、ちょっとした有名人。

さっそく4人の魅力に迫ってみることにしよう。

 

 

[1《通り》目:国道58号、マチナト・コマーシャルエリア]

 

物語3_01マチナトさん

 

【マチナト氏のあゆみ】

 USCAR(米国民政府)で働く父と、米軍基地で働く母の間に生まれる。大学で経済学や経営学を学び、アメリカへの留学経験も持つ。留学中に出会ったいろんな国の友達は、一生の財産。その後の人生でも、友人たちには助けられた。帰国後、外資系の会社とタッグを組み、アメリカ製品を販売する会社を起業。牧港を拠点に、米軍基地で働く軍人や軍属を相手に、商売を開始した。その後も、ひとつのビジネスが軌道に乗ると、さらに別の商売を手がけ、牧港を一大ビジネス街に発展させる。

 ハーフなので、アメ車やアメリカ産ビールが好きと思われがちだが、晩酌は決まってオリオンビール、国産車のショールーム巡りも好きという一面も。最近は、もっぱらブルーシールとA&WのPR活動に取り組んでいる。

 

【マチナト氏のひみつ】

 沖縄県の幹線道路である国道58号。通称「ごーぱち」。アメリカ統治時代にハイウェイNo.1(1号線)として整備された道で、いわば沖縄の顔である。牧港周辺を中心に外国人商社街として発展し、現在も国産車メーカーやアメリカ発祥の飲食ブランドなど多様な店舗で栄え、ドライブ道としても人気の《通り》である。

詳しくは【探究編 #01】

 

 

[2《通り》目:屋富祖通り]

 

物語3_02屋富祖にぃにぃ

 

【屋富祖にぃにぃのあゆみ】

 実家は農家。幼少期は農業の手伝いをして育つ。青年期には、基地へ往来する人々を対象にしていた仕立屋や靴屋を転々とし、夜はバーやクラブのアルバイトをかけもちする生活を送っていた。仕事終わりの一杯を楽しみに、必死に働いていた時代である。Aサインバーに出入りする米軍人や地元の軍雇用員と仲良くなって共に飲み歩き、それなりのトラブルにも見舞われたが、仲間の大切さを実感する。このときの経験から、後に映画館を運営するようになったときにも、仲間に恩返しすべく、地元の敬老会や婦人会の会合などの会場としても開放していた。現在、商店街を盛り上げようと、仲間とともにいろんな企画を考え中。

 

【屋富祖にぃにぃのひみつ】

 大人の夜のまち。浦添の繁華街。そんなイメージが先行しているかもしれない。しかし、屋富祖通りは、元々なんでもそろう活気あふれる商店街として、人々の営みが息づく《通り》だったのだ。人情感あふれる浦添イチのディープスポットである。

詳しくは【探究編 #02】

 

 

[3《通り》目:港川ステイツサイドタウン]

 

物語3_03港さん

 

【ミナトさんのあゆみ】

 その私生活は謎に包まれているが、噂では、昔は「マチナトさん」や基地で働く人々の住宅賃貸業に関わっていたといわれる。彼女が扱っていた住宅は、その広さやオシャレさ、モダンさなどから、憧れの住宅であったという。いつしか、そのフォトジェニックさが話題となり、カフェや雑貨店などを営む人々との交流が増え、ついに自身もカフェを始めた。

 お客さんや同業者などと、カメラやDIYなどの趣味を通じた交流ができることに喜びを感じている。もっとこの輪が広がればいいなと思っている。「屋富祖のにぃにぃ」とは、お互いに浦添市の顔として意識しあう関係。

 

【ミナトさんのひみつ】

 若い女性や観光客に人気のある「港川ステイツサイドタウン」。《通り》のパラレルワールドに住んでいるが、実は、アメリカの州の名前がついた複数の《通り》からなるタウン(まち)である。外国風の建物のカフェや雑貨店が建ち並ぶ、オシャレな《通り》である。

詳しくは【探究編 #03】

 

 

[4《通り》目:パイプライン(県道251号線)]

 

物語3_04パイプラインおじさん

 

【パイプラインおじさんのあゆみ】

 沖縄県営鉄道で働く親のもとに生まれ、軽便鉄道(通称:ケービン)や人々の生活を支える父の背中に憧れて育つ。青年期には米軍の燃料を運ぶ仕事につき、多忙で多難な時期を過ごした。その後、交通面で人々を支えた父の意思を継ぎ、道路整備の仕事につき、多くの人の移動を支える。子どもが生まれたことで、家族とふれあう時間を長く持ちたいと考え、最近、夫婦で飲食店をはじめた。飲み仲間の「屋富祖のにぃにぃ」から、「マチナト氏」を紹介してもらい、経営を語り合う仲になり、共にまちを盛り上げようと画策中。第二の人生ならぬロードライフを満喫中。

 

【パイプラインおじさんのひみつ】

 県道251号線が本当の名前だが、県内では「パイプライン」と呼ばれることが多い。米軍の油送管は那覇~読谷間にまたがって敷設されたため、浦添市を縦断するルートとして、市の幹線道路となっている。アップダウンの激しさや隠れた飲食店の多さなど、ツウな《通り》である。

詳しくは【探究編 #04】

 

物語3_05浦添の通りたちの関係図

 

【戦後浦添の通りの物語をもっと深めたい人のための探究編】

#01 《国道58号、マチナト・コマーシャルエリア》を探究する!

【基地建設と浦添の都市化】

 1945年の終戦から1972年5月15日の本土復帰までの間、沖縄は米軍の統治下に置かれ、米軍基地や関連施設が建設されました。浦添でも、1948年、終戦当時から米軍が軍事物資の集積所として使用していた265万平方メートルの土地が接収され、1950年頃からは本格的な基地建設がはじまりました。現在の牧港補給地区(キャンプキンザー)です。また、沖縄統治のための米国政府の出先機関である「琉球列島米国民政府(通称USCAR)」は、1968年に牧港へ移転しています。

 このような基地建設やUSCARの移転を受けて、周辺地域には、基地建設に関わる軍雇用員や軍属やその家族といった人々、さらには彼らを相手に商売をする人々が集まるようになり、人口が急増、急速に都市化が進んでいきます。浦添における戦後のまちや、今回紹介した4つの《通り》の形成段階には、米軍基地の影響があるのです。

 

物語3_06USCAR

琉球列島米国民政府(浦添市立図書館所蔵)

 

【マチナト・コマーシャルエリアの形成】

 マチナト・コマーシャルエリアは、1950年代のはじめから、牧港を中心に形成された外国人の商業地域です。基地で働く軍人・軍属やその家族などを対象に、外国人経営者らによって卸売業・小売業・保険業・建設業など様々な商業活動が行われました。牧港を中心に、宜野湾から浦添にかけてのハイウェイNo.1(1号線/現在の国道58号)沿いには、これらの事務所・営業所や商店などが建ち並び、特異な景観をつくっていました。

 『浦添市史(第一巻通史編)』によると、1957年当時には、バークレイ商事会社、マンジニー建築資材会社、G・F・シャープ株式会社、キャピタル保険会社、タトル書店、イージェー・グリフス会社、アメリカ国際保険会社、WWテーラー、ウェスターン・パシフィック株式会社、バイヤリーズ・カリフォルニヤオレンジ株式会社、パンオーシャン・リミテッド、ダンハム・エンド・スミス株式会社、ジェネラルペイント株式会社などがあったそうです。アメリカ資本の会社だけではなく、フィリピンや台湾、香港などの資本の会社もみられました。

 

物語3_07浦添牧港外商地帯

マチナト・コマーシャルエリア、WWテーラー社の名前のある建物がみえる(那覇市歴史博物館提供)

 

【当時の面影が残る国道58号】

 マチナト・コマーシャルエリアがあった国道58号やその近郊には、現在も当時の面影をうかがうことができます。

 例えば、ブルーシールアイスクリーム。「アメリカ生まれ、沖縄育ち」のフレーズで有名な同社は、設立こそ具志川市天願(現在のうるま市)の米軍基地内ですが、1963年に現在の牧港本店へと拠点を移し、今にいたっています。沖縄バヤリースは、1950年にバヤリース・カリフォルニアオレンジ社という名前で、城間の1号線沿いで創業、オレンジ飲料の生産を開始しました。設立当初は基地内だけの販売でしたが、1951年から民間地域への出荷が始まりました。さらに、1978年には、日本初のファーストフードレストランであるA&Wが、第2号店として牧港店をオープンしています。

 かつては米国フォード自動車会社の沖縄代理店である沖縄モータースも立地しており、そのガレージの規模は東洋一を誇っていたそうです。その名残もあってか、現在も58号沿いには自動車メーカーのショールームが多いようです。また、オリオンビールの本社ビルも、実は58号沿いにあるんですよ。

 2018年には、新たな国道58号のバイパス道路として、浦添市西洲と宜野湾市宇地泊を結ぶ臨港道路浦添線・浦添北道路が開通し、この一帯は浦添市の新たな顔として、注目されています。

 

物語3_08城間近くの旧1号線

城間付近の旧1号線、オリオンビールや外国語の看板がみえる(浦添市立図書館所蔵)

 

物語3_09屋富祖高架橋からの眺め(1960代後半)

1960年代後半、屋富祖から那覇方面への眺め(浦添市立図書館所蔵)

 

物語3_10屋富祖高架橋からの眺め(現在)

2018年、屋富祖から那覇方面への眺め

 

#02 《屋富祖通り》を探究する!

【農村から基地のまちへ】

 戦前の屋富祖は、さとうきび、さつまいも、スイカ等の生産が盛んで、松並木が茂るのどかな農村だったといいます。残念ながら沖縄戦において激戦地となり、他の集落と同様に家屋敷のほとんどが無くなってしまいました。

 戦後の浦添では字仲間に収容所があり、そこから屋富祖への移動許可がおりたのは、1947年4月のことです。しかし、肥沃土壌が広がっていた字域の西部は米軍の補給基地として接収され、住民は耕地を失うこととなりました。1950年からは基地建設が本格化し、農地を失った住民はもとより、基地建設工事作業員や軍作業員として県内各地から移住者が増え、屋富祖通りを中心に、米軍人とその家族を相手にするバー、食堂、クリーニング、質屋などが建ち並ぶ「基地のまち」が形成されました。

 

【実は映画のまちだった?】

 屋富祖通りの原型である「なかみち」は、かつては道幅が狭く曲がっていましたが、米軍が拡幅し、現在みるような道路に整備されました。《通り》の突き当りに基地に出入りするゲートができたことで、人々の往来も多くなり、米軍人を相手とした商業もはじまりました。表通りにはテーラー、靴屋、クリーニング店などが、裏通りにはAサインバーと呼ばれるバー、キャバレー、クラブなどが立ち並びました。

 どのくらい活気があったかといえば、屋富祖地域だけで映画館が4軒もあったほどです。かつては屋富祖へ行くのは、那覇へ行くのと同じくらいワクワクしたと語る方もいるほど。何でもそろう商店街として、とても賑わった《通り》でした。

 

物語3_11浦添琉映館

1960年、浦添琉映館(浦添市立図書館所蔵)

 

【屋富祖通りのいま】

 米軍基地のゲート通りとして栄えた屋富祖通りですが、1972年の本土復帰以降、まちの形も変化していきました。現在は、老舗から新店舗まで様々な店舗が軒を連ねており、沖縄の歴史が凝縮された「浦添の下町」と呼ぶにふさわしい昭和レトロな雰囲気を持っています。また、路地に入ると、戦災を免れたガジュマルが根を張る風景などもあります。

 屋富祖通りは、市出身の芥川賞作家・又吉栄喜さんの作品にも多く登場しており、作品の舞台となった景色を、フットパスコースとして楽しむなど、レトロで新しい屋富祖を楽しむ取組が行われています。

 

物語3_12商工祭パレード(1968年)

1968年の屋富祖通り、ジョージ薬房や上原鮮魚店などの看板がみえる(浦添市立図書館所蔵)

 

物語3_13屋富祖通り(現在)

2018年の屋富祖通り、上原鮮魚店はそのまま残っている

 

#03 《港川ステイツサイドタウン》を探究する!

【外国人住宅って?】

 港川ステイツサイドタウンは、港川外人住宅街と呼ばれることもあります。外国人住宅とは、米軍基地関係者やその家族のために建てられた住宅のこと。元々は、米軍統治下において、基地内の軍人向け住宅が不足したため、民間による賃貸物件として基地周辺に建てられたことに由来します。

 1950年~1970年代に建築され、室内を広く使えるように、柱ではなく鉄筋コンクリートの壁で躯体を支える構造になっており、平屋で2LDK~3LDKが主流です。建設に際して、実際に工事を請け負ったのは地元の建設業者で、外国人住宅の建設を手がけることで技術レベルが大きく向上し、その後の沖縄のコンクリート造の住宅に影響を与えたといわれています。

 1972年の本土復帰以降は、沖縄の人たちの賃貸住宅としても利用されました。

 

物語3_14牧港独身司令官の住宅

牧港に建てられた独身司令官の家々(那覇市歴史博物館提供)

 

【港川に外国人住宅が多いワケ】

 戦後、1号線(現在の国道58号)沿いでは、1950年頃から、米軍基地の建設や、マチナト・コマーシャルエリア(外国人商社街)の形成が進められました(くわしくは、#01《国道58号、マチナト・コマーシャルエリア》で!)。そのため、1号線に近接する港川地区では、米軍基地や、マチナト・コマーシャルエリアに立地する企業の従業員及びその家族のための住宅建設が行われました。

 当時の港川は小高い丘だったそうですが、そこを切り崩して平らにし、住宅が建てられました。『浦添市史(第一巻通史編)』によれば、1965年には、港川だけで外国人住宅が300戸もつくられ、集落の世帯数135戸をはるかに上回る時期もあったそうです。現在の港川ステイツサイドタウンも、エリア内に59棟の外国人住宅が残っており、これだけの数が集中している地区は県内でも珍しいとか。

 

【外国人住宅街から港川ステイツサイドタウンへ】

 2000年頃より、管理会社である沖商不動産が、外国人住宅の建ち並ぶエリア一帯を「港川ステイツサイドタウン」と名づけました。看板を設置し、各通りにアメリカの州の名前をつけて周辺を散策しやすくしました。

 その頃から、リノベーションOKで庭や駐車場スペースもつくれる外国人住宅が、県外移住者の注目を集めるようになりました。次第に店舗として利用する人が増え、現在では、自分たちのセンスでおしゃれに改装したカフェや雑貨店が建ち並ぶ、沖縄を代表する浦添の観光名所となっています。

 

物語3_15港川ステイツサイドタウン

港川ステイツサイドタウン

 

 

#04 《パイプライン》を探求する!

【はじめは軽便鉄道として】

 沖縄県では、1945年の初頭まで沖縄県営鉄道が走っており、県民から通称「軽便(ケービン)」と呼ばれ親しまれていました。軽便鉄道とはレールの間隔が狭い小型の鉄道のことで、県内では与那原線、嘉手納線、糸満線、海陸連絡線があり、沖縄戦で破壊されるまでは、陸上貨物輸送の要となっていました。

 浦添市では1922年の那覇~嘉手納線の運行開始に伴って、軽便鉄道が走るようになりました。市内には、内間、城間、牧港の3つの駅があり、沿線住民の足として、また、農家のさとうきび搬入等に利用されていたそうです。

 

【燃料を運ぶ道から市の幹線道へ】

 軽便鉄道が通っていた道の一部は、戦後は「パイプライン」と呼ばれるようになります。那覇軍港から本島中部の貯油施設までジェット機の燃料を運ぶパイプが埋められたために、こう呼ばれるようになりました。

 浦添では、パイプラインの敷設地として、旧沖縄県営鉄道の一部が使用されました。内間、大平、伊祖、牧港の地中にパイプが埋設され、当初は、米軍の油線軍用地として民間車両の通行は禁止されました。民間車両の通行規制は次第に緩和され、やがてパイプラインは、人々の通勤・通学をはじめ、企業の流通路としても利用されるようになります。しかし、当時のパイプラインは、雨が降れば泥んこ、晴れればホコリが舞い上がる悪路でした。また、パイプの老朽化等によって燃料の流出事故も再三発生したことから、県民・市民の早期返還の要望が高まり、1985年に内間~伊祖間が、1990年に伊祖~牧港間が返還されました。

 

物語3_16パイプライン大平養護学校付近

1981年のパイプライン、現在の大平特別支援学校付近。道路中央に油送管ボックスがみえる(浦添市立図書館所蔵)

 

【パイプラインのいま―県道251号線として】

 返還後、市道として認定された市内のパイプライン道路は、1989年に「浦添市道路愛称選定委員会」により「パイプライン通り」と命名されました。現在は県道251号線として、市内を縦貫する道路のひとつとして、近辺には学校や病院が立地し、通り沿いには銀行や飲食店が多数建ち並んでいます。国道58号が県のメイン幹線道路として各種企業や大型店舗などが立地しているのに対し、パイプラインは、市の縦断道路として、居酒屋や食堂、カフェなどの飲食店や、スーパー、美容室など、市民の生活に溶け込んだ個人店舗が立地しています。また、アップダウンの激しい地形にあわせた勾配の厳しい道路は県内でも有名です。

 パイプラインの「大平特別支援学校前」バス停は、ポケットパークとして整備されており、道路工事で出土した軽便鉄道のレールの一部と、パイプラインの軍用地境界杭(三角柱)を見ることができます。

 

物語3_17現在のパイプライン

2018年のパイプライン、大平特別支援学校付近

 

物語3_18ポケットパーク

ポケットパークとして整備されたバス停

 

物語3_19軽便鉄道レール

軽便鉄道のレール

 

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