浦添の歴史年表

約4000年前

浦添貝塚が形成される

バイパス(国道330号)の伊祖トンネルの上にある石灰岩丘陵の北側崖下に、貝塚があります。

この場所はもともと浅い岩陰だったようで、1969~70年(昭和44~45)に発掘調査が行われ、約4000年前の土器や石の斧、石の臼、貝製の腕輪や矢じり、骨でつくった道具などが出土しています。中には、はるばる九州から運び込まれた市来式土器も出土し、沖縄と九州の交流があったっことが確かめられました。
1972(昭和47年)には、九州との交流を知るうえで貴重な遺跡であるとして、県の史跡に指定されました。

1153年
癸酉年(高麗系瓦の製作年。諸説がある)
1166年

源為朝と大里按司の妹の子として尊敦が生まれる

沖縄の歴史の中で王の名前がはっきりするのは、舜天王(在位1187~1237年)からです。その舜天は、源為朝の子という伝えがあります。話はこうです。

保元の乱に敗れて流罪になった為朝が伊豆の大島から抜け出て運天港についた後、大里按司の妹を嫁にして、後の舜天が生まれました。

やがて、為朝は妻子とともに国に帰るため牧港から船出しますが、嵐のために失敗します。女性を船に乗せたので海の神の怒りに触れたというのです。

仕方なく、為朝は一人で帰国します。牧港の地名は、その妻子が為朝を待ち続けたことから「待港」となり、「牧港」になったとのことです。

牧港ティランガマ(テラブのガマ)は、為朝の妻子が待っていたところといわれています。為朝伝説は、沖縄各地に伝わっています。

1180年
尊敦が浦添按司になる

舜天王統 1187 - 1260

1187年

尊敦が舜天王になる

1187年、逆臣の李勇が天孫氏25代目の王を殺し政権を奪い、国内は乱れます。そこで浦添按司尊敦が李勇を討って、王位につき、舜天王統を開きました。

1213年
癸酉年
1229年

英祖が生まれる

英祖の誕生については、次の伝説があります。

英祖の父、恵祖世主は天孫氏の流れをくむ人物で、伊祖城に住む伊祖の按司です。彼には子供がなかったのですが、晩年のある日、日輪が飛んできて妻のふところに入る夢を見て、生まれた男子が英祖だといわれています。それで英祖王の神号は英祖日子(エソノテダコ)となっています。

1243年
長崎の人々が宋に渡る途中で琉球に漂着

英祖王統 1260 - 1350

1260年

英祖が王に即位

舜天王統は、舜天、舜馬順熙、義本と続きますが、義本の代に飢饉や疫病が大いに流行したので、王は自分に徳がないことを悟り、英祖に位を譲ったとのことです。

1264年
久米・慶良間・伊平屋諸島が英祖王に入貢
咸淳年間

英祖王が浦添ようどれ極楽寺を建てる

浦添ようどれに向かって右側の墓に英祖は眠っているといわれています。この墓の中には、大型の石厨子一基と中型の石厨子二基があります。石厨子には、仏像、蓮、鶴、亀などが巧みな技術で彫刻されています。

なお、この英祖の墓室の石厨子と、尚寧王の墓室の大型石厨子一基はともに県の有形文化財に指定されています。

1266年
大島諸島が英祖王に入貢
1273年
癸酉年
1321年

奥間大親の子として察度が生まれる

察度にまつわる伝説に、浦添間切謝名村の農家、奥間大親の男性と天女の間に生まれたとする伝説や港に入港した大和商船から鉄を買取って農具をつくり、農民に与えて信望を集めたなどの説があります。

1333年
癸酉年
このころ
察度が牧港で日本商船から鉄を買う

察度王統 1350 - 1406

1350年

察度が中山王に即位

英祖王統が滅ぶと人々は浦添按司の察度を推して察度王統(1350~1406年)が始まります。察度になって、初めて、その実在を書物で確認することができます。

中国の『明史』という書物に1372年に明の太祖の招きに応じて、中山王察度の弟泰期が初めて明に進貢したことが記されています。察度は約30年の間に32回も中国の明に使者を送っています。

14世紀後半
~15世紀前半

浦添グスクが大規模になる

浦添城は、仲間から牧港にのびる石灰岩丘陵の東の端に築かれています。城はそのなかでも最も高く、中頭一円が見渡せる場所です。

浦添城の築城工事が本格的に進められたのは14世紀頃で、察度王の時代にあたります。自然の丘陵の上に、鉄斧で面取りした切石で城壁をめぐらし、石灰岩を砕いたコーラルを大量に運び入れて造成する大工事でした。

城門があったと伝えられる場所では、斜面に城壁が築かれていますが、難工事だったと思われます。この城壁の下には、20歳くらいの未婚とみられる女性が手足を無理に折曲げた形で葬られていました。城壁工事の人柱にされたのでしょうか。

14世紀末
~15世紀前半
浦添ようどれの石垣が造営される
1372年
察度王が明に入貢(朝貢のはじまり)
1383年
洪武帝が察度王に鍍金銀印を贈る
1389年
察度王が高麗に入貢
1390年
宮古・八重山が中山に入貢
1392年
察度王が王族を明に派遣し国士監で学ばせる(官生のはじまり)
このころ
福建の人たちが琉球に帰化(閩人三十六姓)
1393年
癸酉年
1404年
永楽帝が武寧を中山王に封じる(冊封のはじまり)

第一尚氏 1406 - 1470

1406年

尚巴志が武寧を滅ぼす

察度王の子武寧王は、佐敷から挙兵した尚巴志に滅ぼされ、王宮も首里城に移されました。主を失った浦添城は荒廃し、1524年に尚真王の長男・尚維衡が王の怒りを買って浦添城に隠居させられた時には、「城郭毀壊し、宮殿荒無して、瓦廃れて頽れ、鞫りて嚝野と為る」という状態でした。尚維衡は宮殿を移築してここに住み、第二尚氏七代の尚寧王も王位につくまでこの城に住んでいました。

同年
巴志の父・思紹が中山王に即位
1416年
尚巴志が北山を滅ぼす
1422年
尚巴志が中山王に即位
永楽年間
尚巴志王が「駅」(番所の前身)を各地に設置
1429年
中山が南山を滅ぼす(三山統一)
このころ
尚巴志王が極楽寺を前谷に移築

第二尚氏 1470 - 1879

1470年
金丸が尚円王になる
成化年間
尚円王が極楽寺を浦添村に再建し龍福寺と改名
1500年
オヤケ・アカハチの乱
このころ
尚真王の長男・尚維衡が浦添城に隠棲
1524年

日秀上人が経塚の碑を建てる

むかし、この付近に妖怪が出没して人々を困らせた。そこで日秀という仏教僧が金剛経を書き写して土中にうめ、さらにその上に「金剛嶺」と書いた碑を建てた。すると以後、妖怪は出なくなった、ということです。

1564年
尚寧が生まれる
1589年
尚寧が王に即位
1597年

尚寧王が首里と浦添を結ぶ道を改修(浦添城の前の碑)

現在の県道153号線は、かつての浦添街道にほぼ沿っています。宿道として整備されたのは16世紀末。「浦添城の前の碑文」にそのことが出ています。

この碑文は1597年、ときの尚寧王が首里・平良と浦添城までの道を改修し、その完成を記念して浦添城の表門に建てたとされています。残念ながら、いまは拓本しか残っていませんが、碑文には首里の入口である平良橋を石橋にしたこと、道路面を石畳にしたことなどが書かれています。

1609年

島津氏が琉球に侵攻

薩摩の侵入は、琉球が日本の幕藩国家体制に組みこまれるという大事件でした。形の上では王国でありながら、薩摩藩に管理されるという新たな歴史が始まりました。この時代を「近世琉球」とよんでいます。

同年
薩摩軍の攻撃で浦添グスクが破壊され龍福寺も焼失
1610年
尚寧王が駿府城で徳川家康に対面
同年
島津氏が琉球国内の検地に着手
このころ
浦添の「駅」が浦添番所に改修される
1620年

尚寧王が浦添ようどれを改修(ようどれの碑文)

1609年に薩摩藩が琉球に侵攻したとき、浦添城は焼き討ちされ、戦に敗れた尚寧王は鹿児島に連行されました。ようやく帰国を許された尚寧王は、1617年に浦添城を改修して隠居します。そして1620年に英祖王の墓「ようどれ」を改修すると、その翌月に亡くなりこの墓にほうむられました。

同年
尚寧王が亡くなり浦添ようどれに葬られる
1644年
尚賢王がはじめて普天満宮を参詣
1671年
浦添間切を分割して宜野湾間切が新設される
1719年

冊封の宴で玉城朝薫が組踊を上演

玉城朝薫は王府の役人として薩摩や江戸へ上った際、能や狂言、歌舞伎などの大和芸能を学び、それを琉球の芸能にとり入れ、琉球国劇ともいわれる「組踊」を創り出した人物です。代表作には「二童敵討」、「執心鐘入」、「銘刈子」などがあり、現在でも絶えることなく、上演されています。

1759年
尚寧王妃・阿応理屋恵の遺骨が浦添ようどれに移される
1768年
清明の節に国王が玉陵と浦添ようどれに参詣
同年
大地震で浦添ようどれの石垣が所々崩壊
1771年
八重山・宮古地方に大津波が襲来(明和の大津波)
1853年
ペリー艦隊が那覇と浦賀に来航
1854年
琉米修好条約
1872年
琉球藩が設置され尚泰は藩王となる
このころ
浦添ようどれ西室の「殉死ノ者共」の骨が厨子に納められる

沖縄県 1879 -

1879年
琉球藩が廃止され沖縄県が設置される(琉球処分)
1905年
伊波普猷が「浦添考」を発表
1908年
浦添間切が廃止され浦添村になる
1945年
浦添グスクの丘が前田高地として激戦地となる
1955年
琉球政府が浦添ようどれを修復
1970年
浦添村が浦添市になる
1972年
本土復帰(沖縄返還)
1982年
浦添城跡の本格的な発掘調査がはじまる
1989年
浦添城跡と浦添ようどれが国指定史跡になる
2005年
浦添ようどれの復元が完了
2012年

中頭方西海道と普天満参詣道が国指定史跡になる

中頭方西海道は、琉球王国時代に首里王府からの命令伝達や租税の上納に使われた宿道と呼ばれる幹線道で、公事道ともいいます。

中頭方西海道は首里城を起点として浦添を経由して読谷に至るルートで、さらに北の恩納や国頭方面をつなぐ主要道路でした。

1597年建立の「浦添城の前の碑」によれば、尚寧王の命令により首里平良と浦添城をつなぐ道を拡張し平良橋を木橋から石橋に架け替え、道に石畳を敷く国家的大土木工事を行ったことが分かります。

現在は安波茶橋とその周辺に石畳道が残されています。橋の下流側には、赤い皿(椀)で水をくんで国王に差し上げたと伝えられる赤皿ガーがあります。

安波茶橋は石造のアーチ橋で、小湾川に架けられた南橋と、支流のアブチ川に架けられた北橋があります。

普天間参詣道は、中頭方西海道から分かれて宜野湾間切を経て金武へ通じる道で、宜野湾間切りが新設された17世紀後半に整備されたと考えられます。毎年、国王はこの道を通って普天間宮に参詣しました。

牧港川の流れる谷間に長さ約200mにわたって幅3mの石畳道が残っています。このあたりの道は馬が転ぶほど勾配が急なことから「馬転ばし」、「馬ドゥーケーラシ」と呼ばれていました。川に架かる橋は大正・昭和時代に改築されました。

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