舜天・英祖・察度 「浦添三大王統」ゆかりの地を訪ねる

公開日 2015/10/22

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国づくりの神話の時代から琉球王国成立(1429年)までの沖縄の歴史を語るうえで、絶対に欠かせないのが浦添史です。浦添では12世紀半ば頃から、舜天王・英祖王・察度王と続く3つの王統が興り、約250年にわたって本島中部一帯を支配下に収めていました。14世紀には浦添グスクを拠点に勢力を拡大し、琉球史上初めて、中国(明)と公式に貿易を始めたほど。残念ながら1406年、後に琉球統一を果たす尚巴志によって滅ぼされてしまいますが、琉球王国成立後も首里城に拠点を移すまでは、浦添グスクが政治・外交・文化の中心地でした。現在も市内をくまなく歩けば、王統ゆかりの歴史スポットをあちこちで確認することができます。さあ、600年以上前の面影を探しに、歴史ロマンあふれる旅にでかけてみましょう。

 

沖縄にも残る源氏の伝説
舜天王の生い立ちを知る

浦添三大王統のトップバッターは、舜天王統。1187年、浦添で権勢を振るっていた大按司(おおあじ)の舜天は、周辺の権力者たちを次々に従えて、強固な地位を確立。その後3代・約70年間続く王統を築きました。

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舜天王統ゆかりの歴史スポットとして、現在唯一確認できるのが、市指定史跡の「牧港テラブのガマ」です。国道58号の「牧港南」交差点から、海側の小道に入って約50メートル。こんな身近な場所に、浦添のルーツを感じさせてくれる史跡があったとは!

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入口はこんな感じ。ガマ(洞穴)の内部へ下りられる階段が整備されています。洞穴内には拝所があり、誰でも自由に見学OK。ただし天井は低く、日中でも薄暗いため、頭上と足元には十分注意しましょう。

 

一説によると、舜天は、平安時代末期の名将・源為朝の子どもだった(!)ともささやかれています。為朝は、源氏、平氏、藤原兄弟、上皇、天皇らが、もうグッチャグチャになって争った保元の乱(1156年)で敗れ、伊豆大島へ流刑になった後、流れに流れて沖縄へ漂着。そこでなんともうらやましいことにチュラカーギー(美人)と出会い、授かった子どもが舜天でした。しかし数年後、武将の血が再びうずき始めた為朝は、「もうじっとしていられぬ!」と大和の地を目指して出帆。残された奥様と舜天は、「帰りを信じて待ってるわ」とここ、牧港テラブのガマに居を構えて、日がな海を眺めて暮らしていたそうです。現在の牧港という地名は、この故事が下敷きになって、待つ港→マチナト→牧港、と呼ばれるようになったといわれています。

 

市民憩いの公園の奥に
「てだこ」のルーツを発見!

時代は13世紀に入り、1260年頃、当時摂政の職にあった英祖は、舜天王統3代目の義本から禅譲を受け、王位に就きました。以後5代・約90年にわたる英祖王統の始まりです。世襲が当たり前だった時代に、血縁関係のない英祖が次代の王に指名されたことは、それだけ信頼が厚く、優れた人物だった証でしょう。

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それでは英祖王統ゆかりのスポットを訪ねてみましょう。先ほどの牧港テラブのガマから、牧港南交差点を渡って国道58号を横切り、道なりに1kmほど進んだ場所にあるのが、英祖生誕の地といわれる伊祖城跡です。

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一帯は伊祖公園として整備されており、日中は熱心にゲートボールに励むお年寄りや、屋外散策にやって来た保育園・幼稚園児の姿がちらほら。お勤め途中の人が一服できる広い駐車場もあり、浦添市民憩いのオアシスとして親しまれています。

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伊祖城跡に当たる部分は、公園奥の北側にある崖地の一角です。沖縄県指定の史跡であり、所々に残る石積みには古い歴史が感じられるものの、発掘調査が行われていないため、詳しいことは不明なんだとか。階段を上った崖の上には伊祖神社がまつられています。

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伊祖城跡は、英祖の父祖代々の居城であり、英祖もここで生まれたといわれています。彼の生誕時、母親は太陽がフトコロに入る夢を見て英祖をみごもったことから、英祖に「てぃだこ(太陽の子の意)」の愛称がついたというエピソードは、浦添ファンの皆さんにはすっかりおなじみ(?)ですね。浦添市が現在、「てだこのまち」と呼ばれているのは、この逸話が由来になっています。

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伊祖城跡見学時にオススメしたいのが、神社裏側にある展望スポットです。牧港の町を眼下に望み、その先には宜野湾から北谷、読谷半島まで、西海岸の大パノラマが広がります。若かりし頃の英祖はこの地に立って、多くの船が出入りする牧港の港を眺めながら、将来の野望を温めていたのかもしれませんね。実は「浦添」の地名は、浦々を襲う(支配する)→うらおそい→浦添(うらそえ)となったと言われています。現在のここからの景色を英祖が眺めると、どんな思いを抱くのだろうかと聞いてみたい気もします。

 

浦添の歴史を楽しく学ぶ
本物そっくりの展示にびっくり

伊祖公園を出発し、南へ約1.5km。英祖王統の関連史跡として、もう一つ絶対に見逃せないのが、浦添城跡内にある浦添ようどれです。ようどれとは、「夕凪(ゆうなぎ)」を表す沖縄方言「ゆうどぅり」が訛ったもの。その静かで穏やかなイメージが転じて、「お墓」の意味でも使われるようになりました。そう、ここは英祖が眠る墓。英祖在位中の13世紀後半、断崖の洞穴を利用した巨大な墓室が造られました。

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浦添ようどれを見学する前に立ち寄りたいのが、浦添城跡のガイダンス施設として2005年にオープンした、浦添グスク・ようどれ館です。浦添ようどれの実際の墓室内部は非公開ですが、同館内には英祖王陵の中の様子が実物大で、カ・ン・ペ・キに再現されています。

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こちらが復元された墓室内部。沖縄県指定文化財の石厨子が3基置かれています。もちろんこれらもレプリカですが、サイズだけではなく色合い、質感なども精巧に造られており、石の専門家も本物と見まがうほど。また瓦葺きの建物を模した形状は、お寺をイメージしたものではないかと考えられています。何を隠そう、英祖は琉球史上初めて、仏教を導入した人物でもあるのです。

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一つだけ屋根がない厨子の中をのぞいてみると…れ、レプリカだから、怖がらなくて大丈夫。遺骨と一緒に、黄色の糸が施された絹が見つかっており、これは現存する琉球最古の布といわれています。

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館内にはこのほか、浦添城跡や浦添ようどれを発掘調査したときに見つかった出土品や、戦前の浦添の様子を写したパネルなどを展示しています。

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ご覧の高麗系鬼瓦は、戦後の採石中に収集され、後に寄贈されたものです。またその後の発掘調査でも、大量の高麗系瓦が出土しました。それはつまり、13〜14世紀には既に朝鮮半島の造瓦技術が伝来していたことを意味します。

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見学前の予習に便利な、映像プログラムも完備。日本語だけではなく英語、中国語、韓国語にも対応しています。左端で説明しているのは、実際に発掘調査にあたった、浦添市文化課の安斎英介さん。今回の取材の案内役のひとりです。次回以降の特集ではみっちり登場してもらうので、顔と名前を覚えておいてくださいね!

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こちらはNPO法人「うらおそい歴史ガイド友の会」事務局長の玉那覇清美さん。「ガイドと巡る歴史ウォークも大好評実施中。ぜひ利用して下さいね」と読者の皆さんにPR。当日利用ではガイドさんの予約が埋まっていることもあるので、事前申し込みがオススメです。

 

いざ浦添ようどれ見学へ出発~!
2つの墓室は誰のもの?

現在の浦添ようどれは、浦添城跡とともに近年修復・復元されたもので、2005年から一般公開が始まりました。先の沖縄戦で浦添グスクは、北部から攻め込んでくるアメリカ軍を食い止めるための防衛拠点となり、激しい争奪戦が行われた結果、大半の遺構や石垣は失われてしまいました。とくに北側斜面地にある浦添ようどれは、敵の砲弾を正面から受け、甚大な被害を受けました。

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浦添ようどれの見学路は、浦添城跡入口に建つ看板を左手に進みます。断崖脇に設けられた急階段を下りると前庭があり、そこから参道に沿って、二番庭、墓室のある広い一番庭へと続きます。

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戦前まで前庭と二番庭の間には、石積みと岩盤で囲まれた、暗しん御門(くらしんうじょう)と呼ばれる通路がありました。復元した石積みの上には、本来なら右手の岩盤が大きくせり出し、トンネルを形成していました。

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二番庭。ここで一端息を整え、心静かにお辞儀をしてから、中御門(なーかうじょう)と呼ばれるアーチ門をくぐり抜けると…

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どど~ん!とスケールの大きな一番庭が現れました。断崖の岩盤に大きな横穴を掘り、前面を石積みでふさいだ墓室が2カ所。手前の西室が英祖の墓で、内部には先ほど見てきた通り、3基の石厨子が安置されています。

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それでは一体、東室は誰のお墓でしょう…?正解は、琉球王国第二尚氏王統第7代国王の尚寧です。尚寧は在位中の1609年、薩摩藩の島津氏に侵攻され降伏した、悲劇の王としてよく知られています。また歴代国王の中でただ一人、浦添に拠点を置いていた分家の出身で、1620年には王命により、浦添ようどれを現在の規模に改修させました。東室には尚寧と彼の一族が葬られています。

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第二尚氏王統の陵墓は、世界遺産にも登録されている首里の玉陵(たまうどぅん)です。なぜ尚寧は、玉陵に入ることを拒んだのでしょうか。死後はやはり生まれ故郷の浦添に戻って、静かに眠っていたかったのでしょうか。それとも浦添の分家に、王統を移す企みがあったのでしょうか。真相は歴史の渦中に秘められたまま。想像は尽きません。
(写真は東室に置かれたかわいらしい表情のシーサー像)

 

眺めも広さも圧巻のスケール
600年前の栄華をしのぶ

さて、英祖王統のお話がだいぶ長くなりましたが、1350年頃に英祖王統を倒し、新たに王統を建てたのが察度です。察度王統は息子の武寧まで2代・56年間続き、後に琉球王国を築く尚巴志によって1406年に滅ぼされました。浦添グスクは13世紀末、英祖王統の時代に造られたといわれていますが、大きく規模を拡大したのは察度王統の頃。14世紀に入ると琉球では、北部の北山・中部の中山・南部の南山の3つの勢力が覇を争う、いわゆる三山(さんざん)時代に突入。中でも浦添グスクを居城にする中山の察度は大きな勢力を誇り、1372年に琉球で初めて中国の明朝へ朝貢し、中山王の称号を拝命しました。

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浦添グスクは、首里城に匹敵するほどのスケールを備えた広大なグスクで、1989年に国指定の史跡になりました。現在も発掘調査と復元工事が着々と進められており、例えばこうやって石垣をよく見ると、遺構の上に復元後の石垣が築かれている様子などが分かります。

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それではさっそく見学へ参りましょう。今度は入口の案内看板をまっすぐに進みます。最初に現れるのは、明治から昭和期にかけて活躍した沖縄出身の学者で「沖縄学の父」と呼ばれる伊波普猷の墓。浦添にまつわる論文を数多く著しており、首里以前の支配者が浦添を拠点にしていたことが明らかになったのも、普猷先生のおかげなんです。

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城郭内はとても開放的で、広場のような雰囲気です。浦添市内で最も高所にあり、最高地点の標高は148メートル。中でも正殿があったと推定されるあずまや付近からの眺めは良く、伊祖城跡の展望台同様に西海岸を一望でき、北側は断崖になっているため、視界を遮るものがまったくありません。察度がここに拠点を据えたのもうなずけます。

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ガマ、カー(井戸)、拝所、石碑などが点在。整備が済んでいる場所だけなら、20分ほどで歩いて回ることができます。

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なだらかな傾斜に従い南側へ下っていくと、浦添城跡のもう一つの入口、県営浦添大公園南エントランス管理事務所があります。同施設の多目的室には、浦添の歴史を紹介するパネルや航空写真、浦添グスクの模型などが展示されており、ここまでの歴史学習のおさらいにぴったり。逆にここで予習をしてから、各史跡の見学に出かけてもいいでしょう。

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ひと息ついたところで出発しようとすると、むむ、なんだこれは…!実はコレ、沖縄発のスマホゲームアプリ「琉球異聞 朱桜の繋」の登場キャラクターで、その名も浦添百千代くん。2015年9月から、ゲームの舞台となった名所を巡るスタンプラリーを2016年3月まで開催しており、浦添城跡もその一つに含まれているんだとか。スマホ片手に史跡を訪ねて歴史を学ぶ、こんな楽しみ方も面白いですね。

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さてさて、いかがでしたか?駆け足で巡ってきた、浦添三大王統ゆかりの地を訪ねる旅。沖縄で現在登録されている9つの世界遺産に、負けず劣らぬ魅力があることがお分かりいただけたと思います。それぞれのスポットに秘められた物語を少し知るだけで、何気なく接していた沖縄の景色が、ひと味もふた味も変わって見えますよ。次回はわれらが浦添市が誇る「浦添史マニアック三銃士」にご登場いただく予定ですので、続編をこうご期待下さい!

※この記事はに作成されました。公開時点から変更になっている場合がありますのでご了承ください。

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