物語2:家康に会った琉球国王・尚寧 薩摩と戦った王の知られざる物語

公開日 2018/11/30

歴代の琉球国王の中で、初めて江戸まで旅をしたのが尚寧(しょうねい)王。駿府(すんぷ)では徳川家康に、江戸では徳川秀忠に謁見しました。

この尚寧王、実は浦添生まれだったことをご存知ですか?

 

[浦添から首里に照り上がった王]

琉球の王家には、代々王位を継いだ首里尚家と、その支流にあたる浦添按司(あじ)家があり、尚寧は浦添按司家の出身にあたります。第六代の国王・尚永(しょうえい)王には男児がいなかったため、娘婿である尚寧が第七代国王として即位することに。浦添按司家から見れば大出世(!?)で、1597年に建てられた「浦添城の前の碑」では、「浦添より首里に照り上がり」と、尚寧が国王の座についた様子を太陽が昇る様に例えて、誇らしげに表現しています。

こうして王位に就いた尚寧ですが、実は彼が即位した時代は、日本との関係で難しい舵取りが求められた時代でした。しかも彼の周囲には抵抗勢力もいる状況。そこで尚寧は、信頼する弟の具志頭王子(ぐしちゃんおうじ)(尚宏)を摂政に任命し、政権の安定をめざしました。このような厳しい状況のなか、尚寧は、浦添から首里まで道を整備し、西原間切と首里の境界である平良川に石造の太平橋を築いています。一族の期待に応えながら、故郷の浦添のために行った一大事業でした。

 

物語2_01尚寧王カット01

[薩摩との戦い、家康との面会]

尚寧が即位した当時、琉球は、豊臣秀吉から朝鮮出兵に協力するよう無理難題を強いられ、難しい対応を迫られていました。この日本側の態度は徳川幕府になっても引き継がれ、1609年3月、薩摩軍は要求に応えないことを理由に、「非礼な琉球を征伐」という名目で琉球へ攻め込んできました。琉球側も応戦しましたが、敗北。皮肉にも、尚寧が整備した道や橋は、このときの薩摩側の進軍に使われてしまいます。

同年5月、尚寧は敗戦国の君主として薩摩へ連行されました。翌1610年、尚寧一行は、薩摩藩主である島津家久に伴われて、江戸へと旅をします。その道中、駿府城において、徳川家康と面会し、国賓としてもてなしを受けました。江戸城では二代将軍・徳川秀忠に謁見しています。この江戸への旅は、最大の理解者であった弟の具志頭王子が病没するという悲劇に見舞われながらも、1611年の秋まで続きます。琉球への帰国まで、およそ2年半の長く苦しい旅でした。

 

物語2_02尚寧王カット02

 

[王妃との絆]

尚寧が薩摩に連行された後、愛する夫の帰りを待ちわびる王妃・阿応理屋恵(あおりやえ)は、その心情を「北風が吹けば、きっと王様が帰ってくると待ち望んでいる」と謡いました。

阿応理屋恵は、首里尚家の出身でした。当時の慣習に従って、夫婦は没後、尚寧は浦添ようどれに、阿応理屋恵は実家の墓へと葬られました。しかし、王妃の死から100年以上経った1759年、彼女の遺骨は浦添ようどれへと移されます。愛する夫とやっと一緒に眠ることができた妻の想い。浦添ようどれには、そんな愛の物語が秘められているのです。

 

物語2_03尚寧王カット03

 

激動の人生を生きた王、尚寧。

彼が生きた時代の一端は、今日でも浦添グスクなどで触れることができます。

 

 

【家康に会った琉球国王・尚寧の物語をさらに深めたい人のための探究編】

01 [浦添から首里に照り上がった王]をさらに探究する!

【王族・浦添按司家とは】

 琉球の王家である尚家には、第二尚氏第三代国王尚真の長男・尚維衡(しょういこう)を祖とする浦添按司家と、尚真の第五子・尚清(しょうせい)王系統の首里尚家があります。本来なら第四代の国王として即位するはずだった尚維衡は、王朝内での勢力争いで負けてしまい、1524年に浦添グスクへと隠遁することになりました。浦添按司家は、この尚維衡を祖として、代々浦添グスクで暮らした一族です。

 1588年、第六代の尚永王が若くして逝去。後を継ぐ男児がいなかったことから、王位継承者として尚寧に白羽の矢が立ちます。尚寧は、支流の浦添按司家から、王位へと返り咲いた人物。1597年に建てられた「浦添城の前の碑」では、「尚寧は、尊敦(舜天王)よりこのかた二四代の王位を継ぎたまいて、浦添より首里に照り上がり」と、太陽に見立てられた尚寧が王位に就いたことが、高らかに記されています。

 当時の琉球国王は、童名という子どもの頃からの呼び名のほか、即位の際に神から宣託された神号という別名を持ちました。尚寧の童名は思徳金(うみとくがね)、神号は「てだがすえ あんじおそい(日賀末按司添)」。太陽を意味する「てだ」が神号の中に含まれています。

 

物語2_04浦添城跡・復元城壁

浦添城跡

 

物語2_05浦添按司家居館

浦添按司家が生活した館の跡

 

物語2_06尚寧王家系図

浦添按司家の家系図

 

2_7

尚寧の肖像画【七代尚寧王御後絵】
(沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館所蔵鎌倉芳太郎撮影)

 

【尚寧王の道】

 1589年、尚寧は26歳の若さで即位しますが、その当時、日本では戦国時代が終わり、強力な統一国家が誕生したことにより、琉球と日本の関係は難しい状況にありました。朝鮮出兵を目論む秀吉が「日本に従わなければ軍を派遣して琉球をつぶす」と脅し、朝鮮への軍役負担を要求してきたのです。また、王国内部では浦添按司家出身の尚寧に対立する首里派も少なくなく、家臣団の不満や重圧に押されながら国の舵取りを行う必要がありました。そこで尚寧は、弟の具志頭王子(尚宏)を摂政、叔父である浦添親方朝師(向里端)を三司官に抜擢し、政権の安定化を図ります。

 尚寧は、1597年には首里平良から浦添グスクへの道を整備します。また、首里北方の入口にある平良川に、太平橋という石造のアーチ橋をかけました。この道は元々「中頭方西海道」という首里王府からの命令伝達などに使用された幹線道でしたが、大雨が降ると道がぬかるみ、木橋は危険で渡れない状態でした。特に、浦添グスク近くにある安波茶橋周辺は、中頭方西海道イチの難所とされていました。こうして道や橋の整備・改修を行い、首里と浦添をつなぐ交通の利便性を向上させたことは尚寧の大きな功績です。安波茶橋やその周辺の石畳道は、現在も「尚寧王の道」として辿ることができます。

 

物語2_08浦添城の前の碑

浦添城の前の碑

 

物語2_09浦添城跡から首里へのびる石畳道(尚寧王の道)

浦添城跡から首里へとのびる石畳道

 

02 [薩摩との戦い、家康との面会]をさらに探究する!

【薩摩との戦い】

 1603年に開かれた徳川幕府は、東アジアの交易の利を得るため、明(中国)との貿易の道を模索していました。明との太いパイプを持つ琉球は、家康にとっては大いに活用したい外交ルートであり、秀吉のときと同様、薩摩を通じて強圧的な態度で明との取次ぎを琉球にせまります。しかし、尚寧は徳川幕府の要請をかわし続けました。1609年、業を煮やした薩摩軍は、幕府に対する琉球の非礼な態度をいさめるという口実で、とうとう琉球へと侵攻しました。

 薩摩軍は奄美大島、徳之島、沖永良部島を攻め、その後、沖縄本島北部の今帰仁グスクを占領。尚寧は一時停戦を求めて使者を今帰仁へ送りますが、講和は成立せず、那覇で交戦することになります。那覇港での攻防では、一度は薩摩の船団を追い払うことに成功しています。しかし、薩摩の主力軍は読谷から上陸し、浦添経由の陸路で首里へと向かっており、その一部は皮肉なことに尚寧が整備した道を通って首里北方の太平橋まで進軍してきました。このとき、琉球の主力軍は那覇港に集結しており、太平橋の防御は手薄でした。太平橋を突破されたことは琉球の敗戦を決定づけ、首里城は薩摩軍に包囲されます。

 薩摩側との話し合いには、摂政の具志頭王子や浦添親方を含む三司官が臨みました。最終的に尚寧は降伏を決断。首里城を明け渡し、薩摩へと向かうことになったのです。

 

【毅然として薩摩へ】

 3月7日、奄美大島への侵攻から始まった薩摩との戦は、4月5日の首里城明け渡しで幕を引きました。4月16日、尚寧は歴代の国王を祀った廟である崇元寺で薩摩の使者と対面。国王自ら薩摩へ来るよう求められます。総勢100名あまりの使節団が結成され、尚寧と共に5月15日に那覇港を発ちました。

 一行は6月23日に薩摩に到着。藩主である島津家久をはじめ、薩摩側の要人と次々に面会しました。その間、具志頭王子は琉球に戻り、明へ渡って「薩摩に攻め入られましたが大丈夫」と虚実ないまぜの報告をして、再度薩摩へ向かい、尚寧に合流します。1610年4月11日、尚寧一行は家久に伴われて江戸へ旅立ちました。

 一行は、薩摩から大坂までは海路、大坂から京へは川を上り、東海道を陸路で進んで、8月に駿府に到着します。金の鳳凰を屋根にのせた輿に乗り、琉球国王としての威厳を保った旅でした。同月16日、尚寧は、駿府城で徳川家康に対面します。家康は公家の平服である直衣を着用して、大広間の上座で尚寧を迎えました。家康は4日後、再度尚寧を城へ招き、能を見せたり、二人の幼い息子たちに舞を披露させたりして、異国の王をもてなしました。

 

【王弟・具志頭王子との別れ】

 駿府では悲しい出来事がありました。即位以来、尚寧を常に支えてきた具志頭王子が急病で倒れたのです。8月20日、病の床にある王子を駿府へ残し、尚寧一行は江戸へと出発。王子が亡くなったのは翌日のことでした。葬儀は24日に興津(おきつ)の清見寺で行われ、境内の海が見える場所に葬られました。

 尚寧は9月12日、江戸城へ登城。徳川秀忠との謁見を果たしました。具志頭王子の訃報が知らされたのは、その翌日のこと。最大の理解者であった具志頭王子の死に尚寧の嘆きは大きく、供の者も皆、涙を流して悲しみにくれたそうです。往路は東海道を通った一行でしたが、帰路は中山道だったため、尚寧は弟の墓に手を合わせることも叶わず、薩摩へと到着。琉球は奄美群島の割譲や、琉球が守るべき決まり「掟十五カ条」を押し付けられ、尚寧らは薩摩に忠誠を誓う起請文を書かされて、翌1611年にようやく琉球へと帰ることを許されたのです。

 

物語2_10物語2_10清見寺具志頭王子の墓

静岡市興津清見寺にある具志頭王子の墓(いのうえちず撮影)

 

【浦添按司家の墓としてのようどれ】

 琉球に帰れたものの、尚寧は1620年に死去し、浦添ようどれに葬られます。王家の墓である玉陵ではなく、ようどれに葬られたことについて、沖縄では長い間、「外国に攻められて敗れたことを恥じ、ご先祖様に顔向けができないと思った尚寧は、王家の陵墓である玉陵には入らず、浦添ようどれに自らを葬るよう遺言を残した」とされていました。しかし、歴史研究が進んだ結果、どうやらそうではないことがわかってきています。玉陵には葬られるべき血筋をハッキリと書いた碑文があり、そこに尚維衡の名前は入っていないのです。したがって、尚維衡の子孫である浦添按司家は、玉陵に入るべき家系ではありません。尚寧にとって、自分が葬られる場所は故郷である浦添であり、浦添グスクのふもとにある浦添ようどれが、一族の墓として最もふさわしい場所であると考えたのでしょう。

 浦添ようどれは元々、英祖王統の墓として咸淳年間(1265年~1274年)に造営されました。「ようとれのひのもん」には、1620年、英祖王の墓である浦添ようどれを堅牢に美しく修造し、尚寧の祖父・父・兄弟の遺骨を移し、今後浦添間切の責任で管理するように命じたことが記されています。

 「ようどれ」とは、「夕凪」を意味する琉球の古語。尚寧が魂の安らぎを得られたのは、浦添ようどれで眠るようになってからかもしれません。

 

物語2_11浦添ようどれ

浦添ようどれ遠景

 

物語2_12浦添ようどれと碑

浦添ようどれ墓域

 

03 [王妃との絆]をさらに探究する!

【尚寧と王妃の絆を感じさせる「おもろ」】

 尚寧と結婚した阿応理屋恵(あおりやえ)は、第六代国王である尚永王の娘で、尚寧のいとこにあたります。

 阿応理屋恵と尚寧は、今でいう年の差婚でしたが、とても愛情深く尚寧を慕っていたようです。尚寧が2年半もの間、琉球を離れていたときに阿応理屋恵が詠んだとされるおもろが、古謡集『おもろさうし』に収録されています。

 

一 まにしが まねし ふけば(真北の風がたびたび吹くと)

  あんじおそいてだの(按司襲いテダ=尚寧王の)

  おうねどまちよる(御船をぞ待つ)

又 おゑちへと おゑちへと ふけば(順風が 順風となって吹くと)

 

 当時の船は動力のない帆船。通常、日本本土からの船は、北から吹く風に乗って琉球へとやって来ました。愛する人を乗せた船を待ちわびる心情が切なく響き、ラブソングとも受け取れるこの歌は、王や神女を称える祭祀歌謡を掲載している『おもろさうし』の中では異彩を放っています。

 

100年以上の時を経て、やっとひとつに】

 尚寧と阿応理屋恵が生きた時代は、自分の一族の墓に入るのが普通でした。尚寧は浦添按司家の墓に、首里尚家出身の阿応理屋恵は実家の墓である天山陵へと葬られたのです。それから100年以上経った1759年、阿応理屋恵の遺骨は天山陵からようどれに移葬されました。長い空白の時を経て、ふたりは一緒に眠っています。

 

04 尚寧が残したものを探求する!

 尚寧の後の時代、琉球は独立国でありながら、日本や中国の影響下で王国運営を行うことになります。琉球は大国の狭間で、芸能や美術工芸など今につながる独自の琉球文化の基礎を築いてゆきました。また、尚寧の整備した街道は、国王行幸の道のみならず、首里と浦添地域を結ぶ物流にも大いに活用されました。現在でも、安波茶橋とその周辺に石畳道が残されています。

 

【尚寧を感じる場所】

■中頭方西海道、安波茶橋

 尚寧が整備した、浦添グスクから首里までの道の一部で、1998年に復元された石畳道と石橋です。近くには、国王が行幸の途中に赤い皿で水を飲んだと伝わる「赤皿ガー」という井戸があり、東側に王家の茶園があったと伝えられています。

 

物語2_13中頭方西海道(安波茶橋)

安波茶橋

 

■浦添市美術館

 尚寧が家康と謁見した後、琉球使節団の江戸上りが定着します。日本と琉球、中国などの文化を背景に、琉球独自の美術工芸が花開きました。浦添市美術館では、琉球漆器の美と技術の粋にふれることができます。

 

物語2_14浦添市美術館

浦添市美術館

関連ワード

※この記事はに作成されました。公開時点から変更になっている場合がありますのでご了承ください。