沖縄戦最大の組織的な激戦地だったと言われる浦添城跡前田高地を巡り、平和の大切さを考えてみませんか

公開日 2023/04/10

浦添での戦い

”1945年4月1日に、米軍は艦船1,400隻、将兵54万人の内、183,000人からなる大部隊で北谷町から読谷村の海岸に上陸しました。このあたりの海岸はリーフに囲まれた遠浅で、大軍が一挙に上陸するには最適の場所であり、日本軍の北飛行場(読谷)や中飛行場(嘉手納)があったからです。ところが、日本軍は兵力10万人余りで、その30パーセントは戦いの経験のない防衛召集等によるものでした。その上、沖縄守備軍は、最精鋭部隊の9師団が台湾に引き抜かれたこともあって、本土決戦のための時間稼ぎで水際作戦から持久戦に切り替えたため、米軍の無血上陸を許し、簡単に北飛行場・中飛行場を明け渡しました。その後、米軍の大部分は日本軍の司令部のある首里を目指して進攻してきました。日本軍は、首里の司令部を守るため宜野湾の嘉数高地と浦添グスク一帯(前田高地)に防衛線を張り、進軍してくる米軍を迎え撃ちました。地上では米軍の手榴弾が投げ込まれ、空からは「鉄の暴風」と呼ばれたほど凄まじい攻防が繰り返されました。特に浦添グスク一帯での日本軍と米軍の激しい攻防戦が繰り広げられ、沖縄戦最大の組織的な激戦地となり、多くの死傷者がでました。”
(発行:特定非営利活動法人 うらおそい歴史ガイド友の会「戦跡」から見える浦添での戦争 より抜粋)

①陣地壕跡

”首里に侵攻する米軍を阻止するため、「ありったけの地獄を一つにまとめたようなもの」が行なわれた場所です。日本軍は前田高地の地形を利用して第62師団独立混成第63旅団が、洞窟・トンネル・トーチカ連鎖陣地を構築したと思われ「内部は壕口が一つ破壊されても問題がないように、壕同士が繋がっていた」と、日本兵の手記があります。”
発行:特定非営利活動法人 うらおそい歴史ガイド友の会「戦跡」から見える浦添での戦争 より抜粋)

陣地壕陣地壕

②展望台周辺

沖縄戦当時、浦添城跡一帯の丘陵は米軍から「ハクソー・リッジ」、日本軍から「前田高地」と呼ばれていました。ハクソー・リッジのように急に高くなった丘陵や崖は戦車による進軍が難しいことから、自ずと米軍は兵士自らが攻め寄せる攻撃にならざるを得ませんでした。一方の守る日本軍は、高所から攻め寄せる米軍に攻撃を加える、あるいは崖を乗り越えた米兵を狙撃、砲撃するという激しい戦闘を余儀なくされました。

展望台展望台

映画「ハクソー・リッジ」と前田高地について詳しくはコチラをご覧ください。 http://www.city.urasoe.lg.jp/docs/2017052900033/

 

③前田高地平和の碑

”前田高地の戦いで、日本兵は約3,000名の兵を失いました。この碑は主に北海道出身者の戦没者を祀る慰霊碑です。第24師団第32連隊(北郷大佐)の第二戦友会が建立しました。碑文には恒久平和の文言と「国軍の真価を遺憾なく発揮した」とありますが、多くの住民を巻き添えにした戦いでもありました。”
(発行:特定非営利活動法人 うらおそい歴史ガイド友の会「戦跡」から見える浦添での戦争 より抜粋)

前田高地の碑前田高地の碑

 

④クチグヮーガマ(仲間の住民避難壕群)

”当時、浦添の人口は9,217人でしたが、そのうち戦争で亡くなった人は、4,112人で、実に44.6パーセントの住民が戦争の犠牲者となりました。この壕は入口が口を開いた形に似ているためクチグヮーガマとよばれています。主に仲間区6班の住民が避難していました。ところが戦闘が激しくなると班外の人も入っていました。”
(発行:特定非営利活動法人 うらおそい歴史ガイド友の会「戦跡」から見える浦添での戦争 より抜粋)

クチグワーガマクチグワーガマ

 

ご自分で周って見られるのもよいと思いますが、以下にご相談いただければガイドさんが現場をご案内して詳しい解説で理解が深まりますよ。もしよろしかったらどうぞ。

DATA

うらおそい歴史ガイド友の会

料金
約1時間・ガイド1人あたり1,500円
約2時間・ガイド1人あたり3,000円
申込み・
お問い合わせ
「浦添グスク・ようどれ館」
098-874-9345(FAX兼用)
9時〜17時(月曜日は休館日)
Webサイト

 

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