物語1:太陽の道しるべ 琉球の王権と命の再生をたどる

公開日 2018/11/30

浦添市は「てだこ」のまちです。「てだこ」とは「太陽の子」という意味ですが、なぜ浦添が「てだこ」のまちと呼ばれるのでしょうか。

浦添の「てだこ」の秘密をのぞいてみましょう。

 

[てだこの誕生]

はるか昔、浦添に、英祖(えいそ)という王様がいました。

彼が生まれる前、伊祖(いそ)グスクの城主だったお父さんとお母さんは、子どもを授かるのをとても心待ちにしていました。ある日、お母さんは太陽が懐に飛び込んでくる不思議な夢をみました。そうして生まれたのが、英祖です。

王になった彼は一族のお墓である浦添ようどれや極楽寺(ごくらくじ)をつくりました。また、元寇で元軍が沖縄を攻めてきたときには、二度もこれを追い返したといわれます。

人々は彼をたたえて、「えそのてだこ」、つまり太陽なるお方と呼びました。

浦添は「てだこ」が治めていた場所なのです。

 

物語1_01てだこの誕生

[太陽を求めた琉球の王様たち]

太陽に関係する王様は、英祖だけではありません。

英祖よりももっと後の時代、沖縄は琉球というひとつの国となり、その王様は首里城に住むようになりました。代々の王様は、国を照らして民を導くものとして「太陽」にたとえられました。そして、そのシンボルとして、鳳凰(ほうおう)と雲が太陽を取り囲んだデザインの「日輪双鳳雲文(にちりんそうほううんもん)」が、石碑などに使用されました。ずっと昔は、太陽をモチーフにしたこの図案が、王様や琉球王国の象徴だったんですよ。

この図案を最後に使った王様は、浦添出身の尚寧(しょうねい)王でした。太陽の名を持つ最初の王様と、太陽の図案を最後に使った王様が、ふたりとも浦添にいたなんて、面白いと思いませんか?

 

物語1_02太陽を求めた王様

 

[太陽が命を導く]

浦添の「てだこ」の秘密はまだまだあります。

一年で一番、太陽が輝く時間が短い冬至(とうじ)の日。

昔の人々は、この日に太陽が生まれ変わると考えました。人々は、この日の太陽を「若太陽(わかてだ)」と呼んで、若々しく生命力にあふれた、すばらしいものとして大切にしました。

この日、浦添ようどれでは、昇ってきた太陽の光が、ちょうどアーチ門の正面から差し込みます。また、グスクの東端には、ワカリジーと呼ばれる突き出た岩があって、冬至の太陽は、この岩の頂上も通るんですよ。浦添ようどれに太陽のちからを取り込むために、わざとそのように設計したのです。

きっと昔の人々は、太陽に照らされる浦添ようどれやワカリジーに、命の誕生や再生を祈ったでしょう。

 

物語1_03命を導く

 

「てだこ」のまち、浦添。太陽が導く、浦添の歴史は、これからも続いていきます。

 

 

【太陽の道しるべをさらに深めたい人のための探究編】

#01 [てだこの誕生]をさらに探究する!

 英祖(在位1260~1299年)は、琉球の古い王統のひとつである英祖王統を築いたとされる人物です。琉球の歴史書『中山世譜』には、伊祖グスクの按司・恵祖世主(えそのよのぬし)は徳を積んだ統治者だったが、跡継ぎがなく、日輪が飛んできて妻の懐に入る夢を見て男児が生まれる、それが英祖である、と記されています。いうなれば彼は太陽の子どもであり、死後に名付けられる神号も「英祖日子(えそのてだこ)」といいます。

 英祖は、前代の舜天王統の最後の王・義本の摂政となり、その後国政を譲られて王位に登ったとされます。善政をしいたので国はおおいに安定し、浦添グスクの西に極楽寺という寺をつくり、禅鑑なる僧侶をして仏教の振興にあたらせた、また久米島・慶良間・伊平屋・奄美地方からも貢物をおさめてくるようになった、と伝わります。

 琉球王国の成立以前、11世紀頃から、舜天・英祖・察度という3つの王統が、浦添を拠点に中山一帯を支配してきたとされています。舜天王統については、実在は明らかではありませんが、ここ浦添を中心に、多くの歴史人物が活躍していたと想像するロマンが広がります。

 ちなみに「てだこ」の伝承は、英祖がひとかどの人物であることを説明するもので、似たような伝承に、豊臣秀吉(日吉丸説話)や朝鮮李朝の始祖伝説などがあります。

 

【浦添王家の墓 浦添ようどれ】

 浦添ようどれは、浦添城跡内にある王の墓で、別名「極楽陵(ごくらくりょう)」といいます。「ようどれ」とは夕凪を示す琉球の古い言葉です。墓は13世紀に英祖王が築いたとされ、後に段階的に改修されたことがわかっています。現在の浦添ようどれは2005年に復元されたものです。

 崖に開いた2つの横穴を石積みで塞いで墓室としており、西側(向かって右)の西室が英祖王陵、東側は尚寧王と彼の一族が葬られています。墓室内には骨を納めるための石製の厨子が安置されています。墓室の周辺は石積みで囲まれています。

 墓域のある一番庭に行くには、まず、グスクの断崖沿いの参道を下り、「暗しん御門(くらしんうじょう)」とアーチ門をくぐることになります。「暗しん御門」とは、トンネル状の通路(戦災で破壊)のことで、かつては薄暗い空間だったことから、沖縄の言葉でそう呼ばれています。薄暗い暗しん御門を抜け、アーチ門をくぐると、琉球石灰岩の石積みや漆喰が塗られた墓域空間が広がります。太陽なるお方である英祖の墓の聖域性が演出されています。さらに、ナーカ御門は東を向いており、冬至の日には、このアーチ門から太陽の光が差し込む見事な仕掛けになっています。

 墓室内は非公開ですが、「浦添グスク・ようどれ館」に、西室内部が再現されており、英祖王代の遺骨が収められているとされる石厨子(当時は板厨子で、15世紀に石厨子に移し替えられたと考えられている)のレプリカをみることができます。

 

物語1_04戦前のクラシン御門(山崎資料)

戦前の暗しん御門(熊本県立図書館所蔵)

 

物語1_05ようどれの構造

浦添ようどれの構造(安里進氏作図、提供)

 

物語1_06復元されたようどれ

復元された浦添ようどれ

 

物語1_07復元されたようどれ(一番庭)

石積みや漆喰が塗られた白い空間(一番庭)

 

【元寇は、実は沖縄にも攻めてきていた!?】

 琉球の歴史書『中山世譜』によると、元(げん)のフビライ・ハンは6,000の兵をつけて「瑠求」を討たせたが失敗(1291年)、5年後、元の成宗が大軍を再び「瑠求」に送るが、従えることはできず、130人余りを捕虜にして引き揚げた(1296年)とされています。『中山世譜』では、この二度にわたる「瑠求」派兵を、瑠求=琉球とし、英祖王の時代のことだと説明しています。しかし、宋元時代の中国では、南西諸島や台湾を漠然と「瑠求」と呼んでいたようで、ここでいう「瑠求」が、琉球(沖縄)なのか台湾なのかを裏づける資料は全くなく、謎に包まれています。

 

 

#02 [太陽を求めた琉球の王様たち]をさらに探究する!

【鳳凰(ほうおう)】

 鳳凰は、孔雀に似た想像上の鳥のことで、琉球では、吉祥文様(めでたい印)として建築や神女の扇などの文様に用いられました。また、琉球では、鳳凰は、「聞得大君」の象徴でもありました。聞得大君とは琉球王国の神女組織の最高位に位置する役職で、王と国全土を霊的に守護すると考えられていました。その霊力を鳳凰という瑞鳥にたとえたようです。

 さらに、一般に鳳凰は、「鳳」がオスを、「凰」がメスを意味しており、あわせて「鳳凰」と呼ぶことから、夫婦和合(夫婦が仲良く、むつまじく過ごし、子孫が繁栄すること)のシンボルともいわれます。

 

 

【もうひとつの琉球王国のシンボル「日輪双鳳雲文」】

 日輪双鳳雲文(にちりんそうほううんもん)は、太陽(日輪)を中心に、それを二羽の鳳凰と瑞雲が取り囲んだ文様です。中心の太陽が国王を、二羽の鳳凰が国を守る聞得大君の霊力を、瑞雲がめでたさを表します。つまり、日輪双鳳雲文は、皆に愛され守られた素晴らしい王様が、豊かな国を治めていることの証でした。

 この図案は、16世紀に尚寧王が「浦添城の前の碑」(首里から浦添グスクにいたる道路を整備したときの竣工記念碑/浦添城跡に復元された石碑があります)に使用したのを最後に、姿を消します。その代わりに琉球のシンボルとなったのが龍でした。

 

物語1_08日輪双鳳雲文

日輪双鳳雲文

 

【最後に日輪双鳳雲文を使った王様・尚寧】

 琉球王国の第二尚氏王統7代目の王様です。彼には様々なエピソードがあり、なんと、皆が知っているあの歴史上の人物とも会ったことがあるのですが…続きは、「物語2」で!

 

 

#03 [太陽が命を導く]をさらに探究する!

【生命力の象徴? ワカリジー】

 ワカリジーは、浦添グスクの東端にある岩のことで、地元ではワカリジーと呼ばれ、親しまれています(ハナリジー、為朝岩とも)。浦添ようどれから冬至の日の太陽を見ると、琉球王国最高の聖地とされた南城市の久高島や斎場御嶽の方角から昇り、ワカリジーの頂上を通って、ようどれに差し込む軌道をとります。若太陽(わかてだ)に照らされるワカリジーは、地元である前田地域の拝所となっています。

 命と再生の象徴である若太陽を浴びるワカリジーに、昔の人々は新しい命の誕生を願ったのかもしれません。

 

物語1_09ワカリジー

太陽に照らされるワカリジー

 

物語1_10斎場御嶽

斎場御嶽

 

物語1_11ようどれにさす太陽

ようどれの門からさしこむ冬至の太陽

 

【モノレール駅のアートグラス】

 ゆいレールのてだこ浦西駅には、太陽をモチーフにしたアートグラスが設置されています。「てだこ」の都市・浦添市にふさわしい図案だと思いませんか? 太陽は、今までも、そしてこれからも、浦添市の人々を見守っています。

 また、県内のゆいレール駅には、それぞれ、駅の所在地域をイメージしたアートグラスが設置されています。浦添市内にある3駅でも、浦添市を象徴する柄のアートグラスが見られます。ワカリジーが描かれたアートグラスもあるので、市内を散策しながら探してみてはいかがでしょうか。

 

物語1_12ゆいレールアートグラス1

ゆいレールてだこ浦西駅のアートグラス

 

物語1_13ゆいレールアートグラス2

太陽のモチーフ(ゆいレールてだこ浦西駅)

 

物語1_14ようどれ館

【浦添市の「太陽」を感じる施設】

■浦添グスク・ようどれ館

 浦添城跡のガイダンス施設。浦添グスクと浦添ようどれの発掘調査での出土品や古写真のパネルなどを展示しています。また浦添ようどれの西室(英祖王陵)内部を実物大で復元し、県指定文化財の「浦添ようどれの石厨子」のレプリカ(模型)も展示しています。

 

 

■モノレール駅(てだこ浦西駅、浦添前田駅、経塚駅)

 新たに開通するゆいレールの4駅のうち、浦添市には3駅が立地します。それぞれ、浦添にちなんだアートグラスが設置されています。

 

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